私が働く食事処の店主であるおばさんが、行き倒れていた旅の少年を連れてきたのはつい数週間前の、蝉がミンミンと鳴いて日差しがとても強かった日のこと。何でも少年は文無しで、数日間ろくなものを食べていなかったらしくひどく顔色が悪かったが、店に残っていた食べ物を有りっ丈与えたところすぐさま元気になった。そして、その少年が助けてもらったお礼にと、店でしばらく働くことを申し出て今に至る。少年は名を瀬田宗次郎と言った。

「宗次郎くん、かまどの火を炊くの手伝ってちょうだいな」
「はい」
ちゃん、お客さんが注文待ちしてるわよ」
「はい〜、ただいま」

海道沿いの小さな村。それと同じように、規模は小さいけれども良心的で味もなかなかのものであるこの店はそれなりの繁盛を見せていた。そんなこの店で働く私に、宗次郎くんに、そして数人の従業員。決して楽ではないけれど、私はこの仕事に大いに遣り甲斐を感じ一生懸命に働いていた。

宗次郎くんがこの店で働き始めたのは数週間前のこと。最初の一週間は、店の食べ物をたらふく食べてしまったことに対するお詫びとしてただ働きをしていたが、今は今後の旅の資金を溜めるために働いているらしい。宗次郎くんは物覚えが良くこの仕事にもすぐ慣れた。優男風の外見とは裏腹に力仕事もきちんとこなした。そして、それに加えて宗次郎くんはとても優しく穏やかな人格の持ち主だった。少しばかり思ったことを伝えることが苦手な私が、宗次郎くんとは何の隔たりもなく楽しい会話を交わすことが出来たのだからそれは確かなこと。それは私の仕事振りにも良い意味で大きく影響し、おばさんはそのことに対して非常に満足しているようだった。


「お疲れ様」

一日の仕事を終えて、おばさんがその言葉を従業員一同に投げかけた。それと一緒に一日の疲れがどっと体を襲う。ふと宗次郎くんの方に視線を向けてみれば、仕事中となんら変わらずにこにことした笑顔を浮かべているではないか。いつものこととは言え、その元気の源は一体どこにあるのかと私は目をぱちくりするばかり。

「宗次郎くん」
「あ、 さん、お疲れ様です」

流浪の人である宗次郎くんは住み込みで働いている。そして私もまた住み込みで働いていた。もちろん私は旅をしているわけではない。私が住み込みで働いているのは、私を生んですぐに亡くなった母さんに代わって、男手ひとつで育ててくれた父さんが先日事故で亡くなったためであった。父さん以外に身寄りのなかった私を引き取ってくれる人は当然おらず、危うく路頭に迷うところだった私を引き取ってくれたのがおばさんだったのだ。おばさんは困った人を見捨てたり出来ない心の優しい人。

そんなおばさんに引き取られた私と助けられた宗次郎くんは同じ屋敷に住み込んでいる。それぞれの部屋はひとつの大部屋を挟んだ右と左で歩いて数歩のところにあった。その大部屋を使っているのは、おばさんと食事処には顔を出さず畑仕事をしているおじさんだった。

「うん、お疲れ様…でも、宗次郎くんはちっとも疲れを見せないね」
「そうですか?」

屋敷は店の裏口を出てすぐのところにある。私は自分に与えられた部屋へ向かって宗次郎くんと一緒に並んで歩いた。宗次郎くんはいつも通りにこにこと微笑んでいる。本当に疲れなど全く感じられない。

「見習わなくちゃって思うよ。私なんて大して働いてないのに疲れてばかりで…
私を引き取ってくれてるおばさんたちに、恩返ししたいのに」
「恩返しならちゃんと出来てるじゃないですか。だって、 さんは一生懸命働いて店のことをしっかり手伝って。おばさんたちも さんにはとても助けられていると思いますよ」
「そっかな…そうだと良いんだけど」
「きっとそうですよ」

宗次郎くんは変わらず微笑みながらそう言った。それはさきほどまでとなんら変わらない笑顔だと言うのに、その言葉と一緒に向けられた笑みに思わずドキリとせずにはいられなかった。そう、宗次郎くんはとても優しい。相手を思いやる言葉をたくさん知っている。父さんを失って、なかなか心を開ききれなかった私に、本当の笑顔を取り戻させてくれたのは他ならぬ宗次郎くんなのだ。私は、宗次郎くんのことがとてもとても好きだった。

「うん、宗次郎くんがそう言ってくれるなら、そうかもって思える。ありがとう」
「いえ、どうしたしまして」

ちょうどその言葉と共に部屋の前に到着して、私は「また明日」と言って宗次郎くんと別れた。宗次郎くんも「ええ、また明日」と言って自分の部屋へと入っていった。私はしばらく、宗次郎くんがガラガラと閉めた障子をただじっと眺めていた。


* * *


次の日も空は綺麗に晴れ渡っていた。見ているだけで気持ちの明るくなりそうな雲ひとつない青い空。その日の身支度を整えた私は障子を勢い良く開け放って、大空に向かってぐっと伸びをした。それと同時に宗次郎くんの部屋の障子が開いて、そして出てきた宗次郎くんが私に向かって声をかけた。

さん、おはようございます」
「あ、おはよう。宗次郎くん」
「今日も一日、仕事頑張りましょうね」
「うん」

そう言って宗次郎くんは店の下準備をしに、まだおばさんが鍵を開けたばかりの店へ向かってゆっくりと歩き出した。私はその背中を追いながらひとつのことを考えた。

―――宗次郎くんが流浪の人に戻ってしまうのはいつだろう

最近の私はこんなことばかり考えている。宗次郎くんは数週間働いて、しばらくの間はお金に困らない程お給料を稼いだはずだ。いつまた旅に出ると言い出してもおかしくはない。そう考えると、私は胸が苦しかった。また、あの笑顔のない日々に戻るのは怖かった。宗次郎くんに、旅に出てほしくなかった。

けれど、きっとそれは無理なこと。だって、宗次郎くんがしている旅は、宗次郎くんにとってとても大切なものなのだから。詳しいことを聞いたわけではない。けれど、数日前に何のために旅をしているのかと訊ねた時に、宗次郎くんはいつもの笑顔とは違うとても真面目な表情で、「自分だけの真実を見つけるためですよ」と答えた。それが何を意味しているのか私には分からなかったけれど、その真剣なまなざしから、きっとそれは誰にも止めることの出来ない宗次郎くんにとって何より大切なものなのだということだけははっきりと分かった。だから、私にはそれを止める権利はないし、きっと止めたところでそれは無意味。けれど、宗次郎くんがいなくなってしまうことはとても辛いこと。矛盾した気持ちを抱えて、私はどうすれば良いのか思い悩んでいた。



宗次郎くんが「明日からまた旅に出ます」とおばさんに告げるのを聞いたのは、それから数日後の夜大きな花火大会が催されている、いつも通りにむしむしと暑い日のことだった。おばさんはひどく残念そうな声を上げ、けれど「もう行き倒れたりしちゃダメだよ」と心配げに忠告し、宗次郎くんは「気をつけます」と苦笑いしながら返事をした。宗次郎くんが私にそのことを告げに来たのは、辺りがすっかり薄暗くなった花火大会が始まるすぐ直前のことだった。

さん、お話があります」

おばさんたちが使っている大部屋の前の、空が良く見える縁側に腰掛けながら宗次郎くんはそう言った。

「………うん」

話の内容をすでに理解していた私は、その隣に同じように腰掛けながら沈んだ声で返事をした。きっと宗次郎くんは、これから自分が話そうとしている内容に私が勘付いていることを察したろう。けれど宗次郎くんはそれに関して触れることはなく、静かに静かに言葉を落とした。

さんには、色々とお世話になったので伝えておこうと思ったんですけど…
僕は明日からまた旅に出ます」

とくんと、胸の鼓動が高鳴った。分かっていたはずなのに、その言葉を聞くのは辛かった。私は何も言わずその場で俯いた。

「長い旅になりそうだから、また会える機会もあるかもしれません。
けど、今はとりあえず、お別れです」

分かっているのに、お別れなんて言われると心が痛くてたまらなかった。また、宗次郎くんのいない日々に戻るのだと否応なしに現実を突きつけられて、心臓がどくどくと打つ速度を上げていることを感じずにはいられなかった。

「本当に、 さんにはお世話になりました。
出来ればまた、 さんとはお会いする機会を持てれば嬉しいんですけど」

いつものあっけらかんとした笑顔。明るい口調。言葉はとても優しいけれど、それは私にとってひどく残酷なものだった。私は宗次郎くんといつまでもここにいたい、しかしそれはもう叶わぬこと。私はこの思いを振り払わなければならない。けれど、私にとって宗次郎くんとこのまま別れてしまうことは何より怖いことだった。絶対に嫌だった。だから、私は今脳裏をかすめたこの思いを宗次郎くんに告げようと、そう思った。

「ねえ、宗次郎くん………」
「…はい?」

声はきっと震えていたと思う。
でも、宗次郎くんは何も言わず私の言葉を聞いてくれた。

「あのね、私、私…そう、私は、宗次郎くんと…」

―――宗次郎くんと、一緒に旅がしたいんです

そう言葉にしようとしたところで、突然夜空が真紅に染まり、耳の奥がじんと痛むような大きな破裂音が辺りに響き渡った。びっくりして頭上に目線を送ってみれば、夜空は始まったばかりの大きな花火で華麗に彩られていた。うまく出鼻を挫かれてしまった私は、心に思ったそれを言葉にする勇気すらも奪われ再びゆっくりと俯いた。

そう、怖いんだ。一緒にいられなくなることだけでなく、はっきりと宗次郎くんに拒絶されることが。宗次郎くんにとって、私のような人間が旅についてくるなんて、それは足手まとい以外の何ものでもないはずだ。宗次郎くんはきっと私の申し出を断る。でも、その言葉を聞くことも私にとってはとても辛いこと。だから私は、それ以上何も言えずただただじっと俯いた。

花火が綺麗に夜空を飾り始めてからしばらく経って、宗次郎くんは沈黙を破りそっと私に話しかけた。

さん」

私は返事をすることなく俯いたままだった。宗次郎くんは構うことなく言葉を続けた。

「自分の思ったこと、叶えたいこと。それを実現するためには、きちんと自分で動かなければならないんです。他の誰でもない、自分自身で。確かに、誰かの言葉を待ってその通りに動くことはとても楽なことです。でも、結局それは自分自身で決めたことじゃありません」

宗次郎くんの声が、少しずつ重くなってきていることに私は気づいた。私はただ俯けていた顔をゆっくりと宗次郎くんの方に向けた。宗次郎くんは夜空に輝く花火を見つめていた。

「僕は、ずっと自分で考えることなく他人の言うことに従って生きてきました。それが一番正しいことだとずっと思っていました。でも、それじゃあダメなんだってある人が教えてくれたんです。何が正しいか、何が間違っているかを考えて、そして決断するのは自分自身なんだって」

そこまで言って、宗次郎くんは私の方にゆっくりその顔を向けた。
そしてにっと、少しだけ切なそうな表情で微笑んだ。

「他人任せの自分の信念がこもっていない選択では、きっと幸せにはなれないと僕は思います。だから、 さんも誰かに頼るのではなく、自分で決めた道を進んでください。誰かの言葉を待つんじゃなく、自分から伝えたい思いは口に出してください。残酷なように思うかもしれないけど、僕は、 さんには幸せになってほしいから」

そこまで言って、宗次郎くんは私に向けていた視線を再び花火の方に向けた。そして一言、「綺麗ですね」と呟いた。私は、宗次郎くんの言葉にただ小さく「…うん」と返すのが精一杯だった。

少しして、夜空にはいまだたくさんの花火が咲き乱れていたけれど、宗次郎くんと私は自分の部屋へと戻って布団に入った。私は、宗次郎くんがくれた言葉をかみ締めた。


* * *


まだ辺りが薄暗い早朝。それはいつもよりも早い時間であったけれど私は自然と目を覚ました。部屋の前で人の歩く気配を感じて、こっそりと少しだけ障子を開けてみると、そこには慌しく縁側を歩くおばさんの姿があった。

―――もうすぐ、宗次郎くんが出発するんだ

自然とそう思った。

「おばさん」

身支度をいつものように整えてから、私は忙しなく縁側を行き来するおばさんにそっと声を掛けた。

「少しだけ、お話したいことがあります」


日がだいぶ顔を出して辺りがいつものように暑くなり始めた頃、宗次郎くんは全ての旅の道具を手に持ち食事処の前に立っていた。と言っても、宗次郎くんが元々持っていたものはほんのわずかで、むしろおばさんが用意した握り飯だとか飲み物だとか、新しく持ち物に加わったものがその大半を占めている。

「色々と、本当にお世話になりました」

宗次郎くんは深々と頭を下げてそう言った。おばさんはただゆっくり首を横に振り、「体に気をつけるんだよ」と心底心配そうに一言告げた。

「ありがとうございます。また、いつかお会いできることを願って」

そう言って宗次郎くんは店に背を向け、北の方角に向かって歩き出した。そんな宗次郎くんの背中を見て、私はタッと駆け出した。一瞬だけ振り返って見たおばさんは、私に向かってただにっこりと微笑んでいた。

「宗次郎くん!」

私の声を聞いて、宗次郎くんは歩くのを止め私の方へと振り返った。

「あの…北に通じる大きな道、知ってるの。案内する」
「本当ですか?助かります」

私の言葉に、宗次郎くんはいつものように優しく微笑んだ。


店の中の仕事ばかりしていたからあまり辺りを見ながら散歩をするようなことはなかったけれど、小さなこの村には私が働く食事処以外にもそれなりに繁盛している店がちらほらと存在していることに気がついた。太陽がだいぶ顔を見せ始めたとはいっても、まだ朝の早い時間だから開いている店は見当たらない。けれど、人の通りが多くなる頃には役に立つのであろう看板が一定の距離をおいて置かれている。私はそれらの風景をじっと見つめた後、そっと視線を宗次郎くんの方へと移した。

「ねえ、宗次郎くん」

歩いていたその足を止めてそう呼びかけると、宗次郎くんは「はい?」と返事をしながら、その場所に立ち止まって私の目をじっと見た。その視線にドキリとしながらも、私はゆっくりと口を開いて言葉を紡いだ。

「私ね、昨日宗次郎くんに言われたこと、色々考えてみた」

全ての決断は自分でしなければならないのだということ。そしてその思いを伝えるためにはきちんと自分の口で言葉にしなければならないのだということ。それは残酷なようで、でも本当はとても優しい、誰より何より私を思いやっての宗次郎くんの忠告。

「それで、決めたの。私は…私は、宗次郎くんとずっと一緒にいたい。宗次郎くんの隣をずっと一緒に歩いていたい。おばさんにも、ちゃんと言ってきた。だから………私を宗次郎くんの旅について行かせてください」

決して逸らすことなく、私は宗次郎くんの目をしっかりと見つめてそう言った。宗次郎くんもまた私から目を逸らすことなく、じっと私の目を見てその言葉を聞いてくれた。宗次郎くんは、少しだけ間を置いてその口を開いた。

「それは、 さんが自分で決めた、誰かの言葉では決して変わることのない、 さんだけの思いなんですよね?」

確認するように、宗次郎くんは私にそう問いかけた。私はただこくりと頷いて、そしてじっと宗次郎くんの顔を見た。かけられるのは、拒絶の言葉かもしれない。いつもの笑顔で「ごめんなさい」と言われるだけかもしれない。けれど、それでも私の気持ちは変わらない。私は宗次郎くんとずっとずっと一緒にいたい。この思いは誰に何を言われようとも決して変わることのない強い想い。

「なら、僕にはあなたを拒否する理由はどこにもありません」

けれど、宗次郎くんが落とした言葉は、私を拒絶するものではなかった。

「昨日の夜、 さんが僕に何を言おうとしているのか、本当はちゃんと分かっていました。でも、 さんにはまだ迷いがあるように思えたから、僕の方からそのことを口にするのは止めにしました。僕がその言葉を口にすることで、 さんが本当に正しいと思える選択を鈍らせてしまうかもしれない。それじゃあ、きっと さんの幸せには繋がらないと、そう思ったから」

そこまで口にして、宗次郎くんは穏やかに微笑んだ。

「ありがとうございます。僕の言葉に真剣に耳を傾けてくれて。そして、僕のことを想ってくれて。本当は、いつも嬉しく思っていました。 さんが、僕の言葉に微笑んで、僕に心を開いてくれたことを。……… さん、僕の旅は、行く先さえも決まっていないとても不安定なものです。いつ終わるとも断言できない長いものです。それでも良ければ、これからも僕の側で僕のことを見守っていてくれませんか」

宗次郎くんはそう言って、すっと右手を差し出した。溢れる笑顔で、温かい気持ちをたくさん込めて。私は胸がとくんと高鳴るのを感じながら、その手にすっと自分の左手を重ねた。

「もちろん、よろこんで」

宗次郎くんの手から伝わってくる体温はとても暖かかった。宗次郎くんが私の手をにこやかにぎゅっと握って、私も同じように宗次郎くんの手を握り返した。心の中でもそっと繋がれた手と手が、決して離れることがないようにと、強く願いを込めて。


Fin.


ただ願うのはキミの幸せ



2004.8.24


*****
蒼ノ悠婀子様から頂ました瀬田宗次郎夢でした!
いや、もう……っ!!やっぱり宗次郎は良いなぁ……。
ビバ・行き倒れですね。(何だそれ。)
後半の宗次郎の台詞には、本当に考えさせられました。
自分も人の考えに頼ってるからなぁ……。
自分の意見を持つ事は大切ですよね。
と、話がそれましたが、情景描写がしっかりとしていて、
安心して読める文章を書けるのは凄いなぁ、と思いました。
その書き方が落ち着いた宗次郎の性格に合っているなぁ、と。
ほのぼのと素敵な作品を有難うございました♪

悠婀子さんのサイトへは、リンク部屋から行けますので、是非どうぞ!





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