ずっと気になっていた一軒のバー。

街の片隅にひっそりとたたずんでいて、気をつけなければ見落としてしまいそうなくらい、その風景に溶け込んでいた。

ごく小さなお店。

お客さんが入っていくのをあまり見かけた事は無いけれど……。

ただ知ってるのは、そこには優しそうなマスターがいる、と言う事だけ。










ーーーねぇ、マスター。ーーー










何でだろう。

今までは入ってみようとしても足も向けられなかったのに。

今こうして一歩一歩確実にそのお店に向かって行っている。

私はまだ、お酒を飲める年齢でもないし、バーに入っていくような外見でもない。

入っても、怒られるのがオチかもしれないけど……。

でもきっと、あの人ならそんな事はしないだろう。





そう思っていると、すでにもうお店のドアの前。



「バー・ストレンジャー」



それがそのお店の名前。


勇気を振り絞って、ドアノブを握る。

少し汗ばんでいるのが分かった。





カララン……ッ。





ドアに付いていたベルの音が、来客を告げるべく響いた。


いつも通り、カウンターでグラスを磨いていたマスターはドアに少し目をやった。



「いらっしゃい、小さなレディー…では無かったね……。失礼。」



今日のお客さんは高校生くらい……。

まだまだ幼さを残す顔立ちだったが、十分立派な「レディー」だった。



「いつもはもっと小さなレディーが来ているものでね……。」


「ぁ…、あの……っ。」


マスターは、磨いていたグラスを後ろの棚に置き、飲み物の準備を始める。

「ん?どうしたんだい、入らないのかい?」

一向にドアの前から動きそうに無いお客さんを見て、マスターは言う。

「ぇっと、私、まだお酒飲めなくて……っ。」

ドアを開けてしまったけれど、一歩を踏み出す勇気が無くてもじもじとしている。

「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。じゃあ…、バー・ストレンジャー特製のオレンジジュースで良いかな?」

マスターは、お客さんの緊張を解す様に、ニコリ、と優しく微笑んだ。

「ぁっ、ハイ!」

オレンジジュース、と言う単語に安心感を覚えたのか、お客さんは顔をパッと上げて元気な返事をした。

「さ、入っておいで。好きに座って良いよ。」

そう促すと、ソロリ、と中に入って来た。

パタン、とドアを閉める。





「はい、バー・ストレンジャー特製のオレンジジュースだよ。」

「ぁ、有難うございます……っ!!」

オレンジジュースをカウンターから出しながら、マスターが言った。

それを受け取りながら、やはりまだ少し緊張気味に返事をする。

「君は…、この店に入るのは初めてだけど、会うのは初めてじゃない。そうだね……?」

しっかりとオレンジジュースを受け取ったのを見ると、マスターはお客さんの顔を見て、そう言った。

「…………っ!?覚えていて…くれたんですか……っ!?」

マスターのその言葉に、私は凄く驚いた。

だって、あれはもう1ヶ月くらい前の事なんだもん……。










私がこの霞町に引っ越して来たばかりの頃…、私は始めての一人暮らしで色々と大変だった。

食事の買出しから何から何まで自分でするなんて初めてで。

毎日がてんてこ舞いだった。

マスターに初めて会ったのはそんな時。

いつも通り学校帰りにスーパーで買い物をして帰ってる時だった……。

その時はちょうど安売りの時期で、ついつい買いすぎてしまい、買い物袋が今にもはちきれそうだった。

そして、やはり予想は当たり、まだ家に着く前に道端で荷物をばら撒いてしまったのだ。

私は慌てて拾ったけれど、すでに袋には大きな穴が開いていて、学校の鞄には全部は入らなくて、どうしようかと頭を悩ませていた。

その時だった…、マスターが声を掛けてくれたのは……。

『自分の店が近いから。』そう言って、マスターは私に袋を取って来てくれた。

「バー・ストレンジャー」を知ったのはその後だったけれど。

まだあまり知らない土地で人にこんなに優しくされたのは初めてだった。

毎日忙しさに追われていたので、そんな優しさがとても嬉しかった。

だから、マスターの事はずっと覚えていたし、「バー・ストレンジャー」にいつか行ってみたいと思っていた。










「あの時は、本当にどうも有難うございました……っ!!」

ペコリ、と丁寧にお辞儀をしたお客さんを見て、マスターは優しく微笑む。

「いや、困った時はお互い様さ。こちらこそ、覚えていてくれて嬉しいよ。それよりも…、今日はどうしたんだい?何か…あったのかい?」

「え……?」

マスターの言葉に、パッと顔を上げる。

「私…、何か言いましたっけ……?」

少しドキリとして、顔色を濁す。

「いや…、だけど、何だか悩んでるような感じだったからね。何かあったのかな、と思ってね……。」

マスターは、再びグラスを磨きながらそう言った。

「……何だかマスターは凄いなぁ……。何でもお見通しだ……。」

オレンジジュースの入ったグラスを手に、少し俯く。

自然と顔が泣きそうになっていた。

「……すまないね、嫌なら良いんだよ。ただ…、人間って言うのは、何かあった時には人に話すと、少しは心が軽くなるものだからね。私なんかで良いのなら、話を聞こうかと思ってね……。」

静かな声で、優しく言った。

「何でもない事なんですよ……。ただの…、ホームシックなんですよね……。ハハ、こんな年になって笑っちゃいますよね?」

「いや、そんな事は無いよ。幾つになっても、家は恋しいものだし、一人は寂しいものさ。」

優しいマスターの言葉に、何でか続きの言葉が口から出て来る。

「一人暮らしを始めた頃は…、毎日が大変で「寂しい」なんて思ってる暇が無かったんですよね……。でも…、最近慣れてきてから、何だか家が寂しくて…、一人ぼっちだなって、痛感させられて……っ。」

だんだんと、目に涙が溜まってくるのが分かった。

それを必死で押さえ込む。

「……自分の夢のために、ここに来たのに……っ。”一人でもやって行けるから”って…っ、両親説得して出て来たのに…っ、駄目ですね…私……っ!!」

とうとう、堪え切れなくなった涙は頬を伝った。

「君がどんな夢を持っているのか、私は何も知らないけどね…、別に夢を持っているからと言って少しも挫けずに、真っ直ぐにその夢までの道を歩ける人はいないんじゃないのかな?」

静かな店の中に、嗚咽の声が響く。

その声をゆっくりと聞きながら、マスターは口を開いた。

「それに、君は夢に挫けたのではなく、家族の大切さを知っただけだよ。ホームシックと言うのは、家族の事が好きではないと起こらないからね。それは恥じる事ではない。とっても、大事な事なんだよ……。」

静かな店内に、マスターがグラスを磨く音だけが響いていた。

激しかった嗚咽の声もだんだんと静まっていく。

「君はまだ、これからもっと大変な事に出会っていくはずだよ。その夢までの道は、きっと真っ直ぐには伸びていない。寄り道もするだろうし、もしかしたら最初に思い描いていた夢はその先にいないかもしれない。」

「…………。」

「でもね、真っ直ぐ伸びている道よりも、寄り道の出来る道のほうが楽しくて良いじゃないか。時間はまだたっぷりとあるんだ。色んな物を見て、色んな経験をして…、少しずつ君の夢に近付いて行けば良い。」

いつの間にか泣き止んで、真っ直ぐとマスターを見つめて来る両の瞳を、マスターは見つめ返した。

「……有難うございます…、マスター……。何だか私…、ずっと一人で抱え込んでたんですね……。マスターの話聞いて、すっごくホッとしました……っ。」

その顔は、入って来た時よりも晴々としていた。

「それは良かった。私みたいな年寄りの話が少しは役に立てたみたいだね。さぁ、喉が渇いただろう。オレンジジュースをどうぞ、レディー。」

ずっと手に持ち続けていたオレンジジュースに目をやり、微笑んだ。

「ぁ、じゃあ…、頂きますね……。…………っ!?うわぁっ、すっごく美味しいです…っ、これ、マスターが作ったんですよね…っ!!」

先ほどの泣いていた顔とは正反対の、輝かんばかりの笑顔をマスターに向ける。

嬉しそうに一言二言会話をしているうちに、あっという間にオレンジジュースを飲んでしまっていた。

「はぁ〜〜〜、本当に、今日は有難うございました!きっと…、マスターに会いに来てなかったら一人でへこたれてたと思います……。ぇっと…、で、オレンジジュースっていくらですか?」

飲み終えてからも暫く話をした後、カタン、と椅子を立って言った。

「いや、今日は良いよ。」

マスターは、財布を準備している手をやんわりと押さえた。

「えっ!?でも…、オレンジジュース飲んじゃいましたし……!」

それでも払おうとする姿を見て、マスターは苦笑した。

「初めて来てくれたサービスだよ。……その代わりと言っては何だが…、またここに来てくれるかな……?」

マスターに優しくそう言われ……。

「…………!ハイッ、絶対また来ますね……っ!!」

そう言って、とびきりの笑顔を見せてからドアに駆け寄った。

カラン、とベルが鳴ると同時に店の中に茜色の光が差し込む。

「ぅわーーーっ、綺麗な夕焼け!」

そう言って出て行こうとした時……。

「そう言えば、マスター。」

くるり、とマスターを振り返る。

「やっぱりマスターも…、ホームシックになったりしますか……?」

ドアに体を半分隠して、そう尋ねる。

「……いや…、私には、この店に来てくれるお客さん達がいるからね。レディーのような……。」

そう言って、軽くウィンクする。

「フフ…、じゃあ、また……!」

それに少し照れた笑いを返して、私はお店のドアを閉めた。










ずっと気になっていた一軒のバー。

街の片隅にひっそりとたたずんでいて、気をつけなければ見落としてしまいそうなくらい、その風景に溶け込んでいた。

ごく小さなお店。

お客さんが入っていくのをあまり見かけた事は無いけれど……。

ただ知ってるのは、そこにはとても優しいマスターがいる、と言う事だけ。

でも、今はそれで十分なんです。

だって…、これから知っていくんだもの……!
















〜〜〜後書き〜〜〜

ハム猫・「マスターファンの方々、ごっつーごめんなさい……。」

マスター・「その前に…、問題はこれを読んでいる人が私を知ってのか、だね。」

ハム猫・「「カスミン」自体を知らない人もいるだろうしなぁ……。めちゃくちゃ良い作品ですよーーー!カスミンッ!!」

マスター・「それにしても、何だか全体的に言ってる事がおかしな話だねぇ……。」

ハム猫・「うーーわーーー。(棒読み。)そんなダイレクトに指摘しないで下さいよ!書いてる方が分からないんだからっ!!」

マスター・「…………。」

ハム猫・「あぁっ、いつも素敵なアドバイスをくれるマスターがそんなに押し黙らないで……っ!!」

マスター・「まぁ…、これから腕を上げていくように…、努力をすれば……。」

ハム猫・「言葉を濁しながらの無理矢理なフォロー、有難うございます……。(涙)」

マスター・「むぅ…、でも、本当に何か辛い事があれば、いつでも「バー・ストレンジャー」においで。特製のオレンジジュースで歓迎するよ。」

ハム猫・「私も行きたいっすよーーー。えー、ヒロインさんの夢が何なのかは私も知りません。(オイ!)あと、マスターはあんな変な事言わないわ!、と言う方々、申し訳ありません……。私の文才ではどうにもあのマスター独特の素敵台詞は表現できませんでした……。」

マスター・「私は思った事を自然に言っているだけなのだがねぇ……。」

ハム猫・「最後に、マスターが「レディ」とか言ってますが、某乙女ゲームの新守○聖様とかじゃありませんので。」

マスター・「それでは、ここまで読んでくれた君に感謝するよ。よければまた、寄っていってくれないかな?」


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